ラクスマンの来航からレザノフ、プチャーチン来航まで経緯を解説しています。
1792年ラクスマンの来航から1800年代に入り国交を求めるロシアとそれを拒む日本(幕府)の状況…。
最終的な北方領土が両国でどう扱われたかを中心に、事実に基づいてレポートしていきます。
それでは、はじまりはじまり^^
目次
ラクスマンの来航 | 正式名はアダム ラクスマンだよ
ラクスマンの来航は1792年根室です。長崎ではありません^^;
ラックスマンは漂流してロシアにたどり着いた大黒屋光太夫(だいこくこうだゆう)という日本人と、磯吉、小市と言う、これまた日本人3人を連れて、やってきました。
この時代、漂流して外国に流れ着くって、ある意味『死』なわけです。
国交のない外国なわけですから殺されることもあれば、そもそも難破してるわけですから大海原で沈没するとこだってあるわけです。
そんな漂流民を助けて自国に返すと言う…言わば『慈善行為』を手土産に国交樹立のお誘いな訳ですから、ラックスマンも簡単に日本と国交が結べると思ってたでしょうね(^^;
でも、そうは簡単にいかないんです。
因みにこのラックスマンが乗ってきた船はの名はエカチェリーナ2世号といいますが、このエカチェリーナ2世とはその時のロシアの女帝です。
このエカチェリーナも初代皇帝ピョートル1世同様、日本へ強い関心を持っていましたので、ラックスマンを送り、日本と国交を結ぼうとしたのです。
ピョートル1世につては前回の記事で触れていますので良かったらどうぞ。
⇒方領土の歴史をわかりやすく解説| 一番古い住人はだれなの!?
このとき、日本は松前藩が相手をするのですが、前述通り鎖国時代ですから、すぐさま江戸幕府にお伺いを立てる訳です。
で、幕府は老中(ろうじゅう)松平定信が対応します。
松平定信を中心にいろいろ協議するのですが、結局…交易については断りを入れました。
その時の断りが『国法で交易はできない。どうしてもというなら長崎に来るように…』と信牌(しんぱい)を渡すのです。
信牌(しんぱい)とは通行許可証のようなもので、長崎に出入りする外国人が持っていなければならない『通行手形』のことです。
これが無いと、長崎にすら入れない訳です。
…という具合で幕府は一定の寛容な態度はとりつつも、あくまで鎖国を貫きました。
★おもしろエピソード
それと、この一件のおもしろエピソードで、日本国内の話しですが、ラクスマン来航を受け幕府は『松前藩に任せては頼りなくて不安だ…』と考え、蝦夷地を幕府直轄で管理するようにしちゃいます(^^;
要は領地を取り上げちゃったのです^^;
実際、1800年に幕府から近藤重蔵を択捉に派遣し役所を設置して幕府とダイレクトでやりとりするようにしたり、伊能忠敬(いのう ただたか)に防備を強化するために蝦夷地沿岸の測量をさせたりしています。また1801年には得撫島に日本の標柱を立てに幕府直轄で主権を主張したりしました。
確かに地方大名の松前藩だけじゃここまでスピーディーにディフェンスできなかったかもしれないけど、逆に幕府は相当ビビってたとも言えますね^^;
ラクスマンの来航の同乗者 | 大黒屋光太夫 漂流から日本帰還まで
ラクスマンの来航の時に居た大黒屋光太夫(だいこくこうだゆう)について、漂流から日本帰還までを追ってみましたのでレポートします。
1782年三重県鈴鹿市にある白子港から船で江戸に物資の輸送してた『神昌丸』という船。
この神昌丸の沖船頭(船長)が、大黒屋光太夫(当時31歳)です。
ラクスマンの来航の時に居た一緒にいた磯吉、小市は神昌丸の乗組員です。
この他にも14人の乗組員が神昌丸に乗船しています。
そしてこの神昌丸が、1783年12月9日駿河湾付近で暴風に巻き込まれて漂流してしまいます。因みに駿河湾とはこの辺りです。
実に7か月の漂流になるのですが漂流中、食料は幸い船に年貢米を積んでいたので何とかなったのと、雨が多く、水分補給も漂流中なんとかできました。
ただ、ビタミン不足から乗組員1人がビタミン不足で病気になり船上で死亡しています。
光太夫は31歳の時の話しで、神昌丸はアムチトカ島で座礁してしまいました。
この駿河沖で遭難し、7か月したのち、1783年7月21日アムチトカ島にたどり着きます。
アムチトカ島とはこちらです^^;
これだけの距離を約7か月間漂流したわけです。過酷ですよね。
光太夫たちの過酷さはたどり着いたアムチトカ島でも続きました。
アムチトカ島にはアウレト族という原住民と、そのアウレト族と取引をするロシア人が住んでいました。
このアウレト族とロシア人とコミュニケーションを取りながら極寒の島でで飢えと寒さに耐えながら、何とか食いつなぎ、島に流れ着いた難破船などの材木をかき集めて船を作り出します。
ここから脱出しようとした訳です。
この生きる執念…たくましいですよね^^;
その一方で現地にいたロシア人と少しづつ交流を持ち、ロシア語の習得も行いました。
アムチトカ島では4年過ごし7人が亡くなりました。
そして漂流から4年、同じように島に居たロシア漂流民たちを乗せ、カムチャッカへ向かいます。
もともと船長だった光太夫は船の知識と指導力があったためロシア乗組員たちに的確に指示し、1787年カムチャッカにたどり着くことができました。
ただこのときのカムチャッカは食糧難でさらに3人の乗組員が壊血病で亡くなりました。
光太夫らはカムチャッカで1年を過ごしロシア内陸のイルクーツクまで行きます。
簡単に書きましたが、陸路5000kmです^^;今からおよそ200年も前ですよ~^^;
凄いっすね^^;
ざっとこんな感じのルートです。
そして光太夫はイルクーツクで、博物学者キリル・ラクスマンと出会います。
この出会いが光太夫達の運命を大きく変えることになります。
日本に興味のあったキリル・ラクスマンの手引きで当時の女帝エカチェリーナ2世に会わせてもらえたのです。
光太夫はエカチェリーナ2世に過酷だった漂流生活の数年を話し日本へ帰国したい旨を伝えました。
エカチェリーナ2世は光太夫の不幸な漂流事故を「ベンヤシコ」(かわいそうに)と発したと言います。
さすがエカチェリーナ2世ですよね。
このエカチェリーナ2世は北ドイツ生まれのロシアの血をひかない女帝で豊かな学識と情深い感性をもつ人でした。
ロシア国内の政治もヨーロッパの自由経済を取り入れたり、宗教の自由を認めたり、教育、医療施設など積極的に建設したりかなりの成功を治めていました。
晩年は若干弾圧的な政治手法になったといていますが…。
そんなエカチェリーナ2世は光太夫らを日本に送還するよう、そして日本との貿易関係を構築するよう、勅令を出したのです。
前述したように1792年9月24日、光太夫・小市・磯吉の3人の漂流民をのせたエカチェリーナ2世号は日本に帰れることになったのでした。
ラクスマンの来航から12年後 |1804年レザノフ来航
ラクスマン来航から12年後、ニコライ・レザノフというロシアの外交官が日本に来ます。
幕府から信牌(しんぱい)を手に入れたロシアは今度は1804年9月6日長崎にロシア軍艦『ナデジタ』で来航しました。
軍艦ナデジタにはニコライ・レザノフ以下、漂流民だった土井津太夫(どい つだゆう)らを連ねて、当時のロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を持って長崎に来航しました。
この時ロシアの皇帝はアレクサンドル一世で、前回1回目のラブコールの時のエカチェリーナ2世の孫です。
ちょっとこの時期のロシアの皇帝、女帝の在位順を掲載しておきます。
ロシアの皇帝リスト
同じな名前で1世、2世とかあるので分かりにくいですよね^^;
とてもおばあちゃんっ子だったアレクサンドル1世はエカチェリーナ2世の思いを受け継ぎ日本への国交要望も受け継いだのです。
それはそうと、前回の大黒屋光太夫といい、今回の土井津太夫といいロシアに漂流してる日本人…多いですよね^^;
レザノフは信牌(しんぱい)を持って、皇帝アレクサンドル1世の親書を持参し…と礼に尽くした外交で幕府へ国交を求めましたが、この時の幕府の対応が非常に非礼でお粗末なものでした。
ロシア側の誠意を踏みにじるように、レザノフが来航したちょうど半年後の1805年3月6日に回答するという非礼な遅延対応をしたのです。
しかも対応にあたった老中、土井利厚(どい としあつ)の回答は『国交は結べない』と言い、皇帝アレクサンドル1世の親書の受けとりも、断ったのです。
ちょっと失礼すぎますよね^^;
もし鎖国中で法的に国交を結ぶ事が無理でも、もう少し早く回答すべきだと思いません?
6か月間待たせて、要望はのめないし、しかも親書もいらないって^^;
ただレザノフはただ待っていませんでした。
待たされていた6か月間で日本の国民性や防衛力など密かに調査ていたのです。
そしてレザノフはある一定の結論を出しました。
それは日本の防衛力はそんなに高くないこと、それと日本人は欧米人を恐れている事などです。
レザノフは帰国後『日本は武力で交渉すれば国交を結べる』とロシア皇帝に報告しました。それだけではなく『世界周航記』で出版し、この事を世界に知らしめたのです。
この『世界周航記』で、またたく間にヨーロッパ、アメリカに広まってしまい実際1807年4月24日ロシア海軍士官が日本人5人を連行するという事件が起きます。この事件をロシア海軍士官の名前をとって『フボストフ事件』といいます。
この事件の後も択捉、樺太で同様な事件が起きています。一説には20年後の黒船来航のきっかけにもなったとされています。
レザノフへの6か月間の遅延が、数十年後の鎖国を終えるきっかけになった…ということですね。
ラクスマンの来航から実に62年後 | 1853年プチャーチン来航
ラクスマン来航から62年後の1853年エフィム・プチャーチン使節が長崎に来航しました。
…と、その前にその62年間は、日ロで小さな事件が頻発するようになり、日本とロシアは一触即発の状態が続いていました。
そんな事もあり当時の皇帝アレクサンドル1世は1821年9月4日『ロシアの経済活動を得撫(うるっぷ)島の南まで』とロシア商人に命令しています。
つまりロシア国境を得撫(うるっぷ)島の南までとした訳ですね。
こんな感じで。。
これを受け幕府は領土を松前藩に返します。
幕府は日ロの危機的状況は回避したと判断したんでしょうね。
そのフワッとした状態の日ロ関係の最中1853年8月21日にプチャーチンが長崎に軍艦4隻で来るわけです。
因みにこのプチャーチンが来る1ヵ月前にマシュー・ペリーが国交を求め江戸湾(現在の浦賀)に、やはり軍艦4隻で来ています。黒船襲来ってやつですね。
ペリーは幕府のお膝元の浦賀まで来て軍艦4隻で軍事的圧力をかけてるのです。
これに対しプチャーチン長崎に来ています。当時の日本は長崎だけが外交拠点です。
プチャーチンは日本の意向(ルール)を汲んで長崎で外交交渉に臨もうとしたのです。
この来航場所の違いはペリーとプチャーチンの人柄を表していて、ペリーは武力を背景に恫喝外交で交渉を強硬的に進めてきましたが、プチャーチンは日本をしっかり勉強し国情などを尊重して紳士的な親日外交をしてきたんですよ~。
これだけじゃないプチャーチン親日ぶりは、まだまだあるのですが、もともとプチャーチン自身が親日家ということもありましたが、この時のロシア皇帝はニコライ1世で、このニコライ1世から日本との外交交渉は平和的にすすめるよう命令されていた事もあるんです。
ただこの時タイミング的にちょっと不運だったのは、クリミア戦争で敵国となったイギリスがプチャーチンのロシア艦隊を攻撃するために長崎に向かった…などの情報が入って、日本との交渉半ばにして上海へいったん退避したりしました。
再度、日本へ来航し幕府全権の川路 聖謨(かわじ としあきら)と交渉し、『日本がロシア以外の他国と通商条約を締結した場合、ロシアとも同等の待遇を与える』ということで合意しプチャーチンは日本をあとにしました。
で、1854年日米和親条約が結ばれると、3回目のプチャーチン来日し、1855年2月7日、日露和親条約を締結し、日ロの国交が樹立されることになりました。さらに3年後の1858年には日ロ修好通商条約にもプチャーチンは参列しました。
日ロ和親条約の主な内容
日ロ和親条約の主な内容は下記です。
- 択捉と得撫島の間に国境を設ける。
- ロシア領事を日本に駐在させる。
- 樺太は国境を設けない。
- ロシアのために箱館、下田、長崎を開港する。
などです。
実に1792年根室に現れたアダムラックスマン以来、63年かけて日ロの国交が樹立されたわけです。
これも親日家プチャーチンの功績が大きいといえます。
実際、交渉にあたった川路 聖謨(かわじ としあきら)もプチャーチンのことを『軍人として素晴らしい功績を持ってるのにも関わらず、終始慇懃(いんぎん)そのもので、自分など到底かなわない真の豪傑(ごうけつ)である』と言っています。
慇懃(いんぎん)とは礼儀正しく、丁寧なさまという意味です。豪傑(ごうけつ)は小事にこだわらず思いきったことをする人のことです。
幕末を代表する名官吏にこう言わせたプチャーチンはロシアに帰国後の1859年条約締結成功の功績で『海軍元帥』に昇格し、日本からも勲一等旭日章(くんいっとう きょくじつだいじゅしょう)という勲章も送られています。
ラクスマンの来航からレザノフ、プチャーチンの歴史のまとめ
いかがでしたでしょうか。
ラクスマンの来航からレザノフ、プチャーチンと約60年の歴史をレポートしてみました。
最終的に北方領土の領有権が決まったのは、1855年の日露和親条約ですが、それより前からロシアは北方領土は日本の領土という認識があったことが分かると思います。
タラればの話しではありますが、もし日本が鎖国をしていなければ、北方領土はもっと前から日本の領土となっていたかもしれませんね^^;
もちろん、これは法的な領土の話しで先住民はだということは変わりませんけどね。
要は後発組の日本とロシアが北方領土を取り合ってるけど、先住民はアイヌって事です。
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