戦後70年動かなかった北方領土の問題が動きそうですね。
もしホントに北方領土が返還されれば道民として、こんなうれしい事ないです^^
思えば2000年小渕元首相が逝後、後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した森喜朗元首相がロシアの大統領就任直前のプーチン大統領としっかり人間関係を築き、2001年に北方領土4島の帰属を約束した時、『マジで解決するかなぁ』って思ってたんですけどね~。
この時ちょうど学生だった私は、根室出身の友人とすっごく仲が良く、毎日のようにツルんでたので、けっこう北方領土のことニュースとかで見てたんですよね~。
その友人の根室の家に泊めさせてもらって、友人のお父さんと『カニ味噌』を御馳走になりながらお酒も飲んだなぁ。
懐かしいなぁ。
そんな時の話題はだいたい北方領土なんですね^^;
だから若い時から北方領土って私なりに意識してたんですが、今回はマジのマジで解決しそうですね~。
ただ、人によっては解決って、ロシアに譲歩しただけだろ…って人もいたりして。
数日前の北海道新聞にも4島一括返還が北方領土問題解決の前提条件とデカデカ掲載されてました。
でも今、言われてるのは北方領土 2島返還な訳で(^^;
いったい日本にとって北方領土問題の解決とは何なんだろう?
…と言うことで、その辺を詳しくレポートしていきたいと思います。
まずは北方領土は『2島返還』の意味について解説していきたいと思います。
目次
北方領土『2島返還』って聞いて…あなたはどう思います?
北方領土2島返還と聞いて、あなたはどう思いますか?
いきなりすみません(^^;
この北方領土2島返還を聞いた人って、大きく2つの感想を持つんじゃないでしょうか。
『ふざけんな何が2島だよ(`ヘ´)』って人と、『2島でも戻って来て良かった(^o^)』って人。
これって単なる主観的な違いに思えそうですが、実は北方領土問題のスタート地点の認識の違いから起きてるんですよね。
どういう事かと言いますと、北方領土は日本とロシアどちらのものか…って事です。
私もそうですが、学生時代習ったのは北方領土は歯舞、色丹、国後、択捉と4島は全て日本のもの。…でした。
学生時代というより、つい数年前までテレビのCMでもやってましてよね。
北方領土は日本固有の領土ですって。
こんな感じでもともとの持ち主である日本に返すのは当たり前だしロシアが返さないのは不当。
…とまぁこんな感じで私も考えてきました。
実際、内閣府のホームページにもこうかかれていますしね。
⇒内閣府ホームページ
この前提でいけば北方領土 2島返還と言われれば『ふざけんな!何が2島だよ(`ヘ´)』ってなっちゃいますよね。
ただ、ロシアはロシアで同じように自国の論理で北方領土はロシア固有の領土と思ってる訳です。
後ほど解説しますが第二次世界大戦の戦利品として合法的に手に入れた領土ってのがロシアの論理。
この両者の認識の違いで、この70年間北方領土問題は解決してきませんでした。
この日本とロシアの認識の違い…どちらの言い分が正当性があるのかについて、北方領土の歴史を調べてみましたのでレポートします。
北方領土『2島返還』って言うけど…元は誰のもの?
そもそも北方領土は誰のものって話しですが…これが大事ですよね。ここが軸になるはず…。
これがすべてキーになるはず( ̄∀ ̄)そう思って調べてみました。
で、調べてみると北方領土の条約で一番古いのが1855年の日魯通好条約と言うものです。
因みに『日魯』は、『にちろ』と読みます。この時代のロシアの『ロ』は『魯』です^^;
この日魯通好条約の原本は1923年の関東大震災で焼けてしまったのですが条約の内容はこんな感じです。
日本とロシアの国境を『択捉(えとろふ)と得撫島(うるっぷ)の間に取る』と書かれています。
地図的にはこんな感じですかね。
因みに樺太(からふと)については日本とロシア共同で混住すると決められました。因みにの因みにで^^;『樺太』とは日本での地名で、ロシア側は『サハリン』と言っています。
と言う事で日魯通好条約では北方領土は日本の領土で、樺太は日ロ両方の領土と言うことになりました。
で、この樺太の日ソ混住という中途半端な状態で小さな紛争が度々起きていました。
そこで1875年樺太・千島交換条約を日ソで結び、ロシアが樺太全島、日本が千島列島すべてを領有することを決めました。
こんな感じです。
まぁこのほうがスッキリしますよね(^ ^)
この事から1855年、1875年時点では北方領土4島、国後、歯舞、択捉、色丹は日本の領土である事が分かります。
北方領土2島返還の経緯を考える | いつからロシアが実行支配?
1875年に日本のものだった北方領土が、いつからロシアが実行支配するようになったのか…ですが。。
1945年8月下旬から9月にかけてです。
1945年といえば終戦の年ですよね。8月15日に日本はアメリカ、イギリスを中心とした連合軍に無条件降伏しました。
つまり戦争に負けた日と言うことです。
この時、日本とロシア(当時ソ連)は『日ソ中立条約』を結んでいました。
正確には終戦の1945年からさかのぼる事…4年前の1941年4月14日、『日ソ中立条約』という条約を結び、お互いがお互いの国を攻めない事、万が一相手が第三国から攻められたら他方は中立を保つ事…を条約としたのです。
もちろん口約束なんかではなく、互いの立法機関で批准(ひじゅん)した条約です。
批准とは国家が承認するという事です。日本で言うと国会がその条約を承認する…と言う事です。
国家レベルの約束を交わした訳です。
ただ…とんでもない悲劇が日本に起きました。
日ソ中立条約を結び、すっかり友好国と思っていたソ連が、あろうことか1945年8月8日、樺太南部、千島列島の最北端から侵攻してきたのです。
そして8月28日択捉島に9月1日国後島、色丹に、そして歯舞へ9月4日と、どんどん侵攻をしてきたのです…。
ありえんですよね!
明らかに条約違反です。
まじありえなくないですか??
重複しますが日ソ中立条約って単なる口約束じゃなく互いの立法機関で批准(ひじゅん)した条約ですよ。
これをソ連が破って、しかも降伏した日本に攻めてきたのです。国際的に許されない不法行為です。
何にしても、この戦後(1945年8月、9月)の侵攻によって北方領土はロシアが実行支配するようになりました。
ロシアの約束破りはアメリカ、イギリスも了承済み!?
日ソ中立条約を反故にして北方領土を不法占拠したロシア…。ホントひどい国ですよね。でもこの卑怯な侵攻を当時の連合国アメリカ、イギリスも知っていたというのです。いわば共犯ってことです。
実はこの1945年8月ソ連の侵攻の半年前の1945年2月にヤルタで行なわれた会談でアメリカ、ソ連、イギリスの3国で決めていたのです。
ヤルタとはロシア国内にある地名の事です。
第二次世界大戦で勝ちが見えてきた連合国側のアメリカのルーズベルト大統領、イギリスの首相チャーチル、ソ連のスターリン書記長が、このヤルタに集まり戦後処理などについて話し合いました。
第二次世界大戦は日本、ドイツ、イタリアの3国同盟対連合国の戦いでした。
この1945年2月は第二世界大戦末期の時期でイタリアはすでに降伏し、ドイツの降伏も近い時期でした。
ドイツもジリ貧、ここで日本も一気に降伏させようとし、ルーズベルトがスターリンに日本侵攻を進言したと言われています。
因みにアメリカのルーズベルト大統領は共産主義者で、アメリカ、ソ連で巨大2大共産主義大国を世界に作ろうとしていたと言われています。
当時のイギリスを除く全ヨーロッパがソ連の支配下に入ることさえ、認めていました。
こうしたアメリカ、ソ連、イギリスの3ヶ国会談、ヤルタ会談でシナリオが作られ、それから半年後の8月8日ソ連の侵攻が始まり軒並み北方領土をソ連が実行支配する事になっていきました。
北方領土2島返還 | 日本が北方領土を放棄した!?
1945年、不法な形でソ連に北方領土を奪われ、それから時が流れ6年後の1951年、戦争状態を完全に終わらせるために日本はサンフランシスコ講和条約という条約を各国と結ぶ事になります。
サンフランシスコ講和条約の内容はザックリいうと戦争状態の終結、日本の主権の回復、それと領土の規定です。
とりあえず世界を巻き込んだ戦争に終止符を打ち各国との利害を線引きしましょう…という事ですね。
具体的には日本は朝鮮の独立を認めたり台湾・澎湖諸島を放棄したりしました。
そのなかで南樺太・千島列島も放棄してるのです。
この千島列島には国後、択捉島が入った状態で…です。
正確にはサンフランシスコ講和条約で千島列島に国後島、択捉島が記載されておらず曖昧だったらしいのですが、ただ後の国会で吉田茂首相、条約を担当した外務省の西村熊雄条約局長が『国後、択捉は千島列島に入る』と言ったのです。
つまり国後島択捉島を放棄したと言ったのです。
サラッと書きかましたが、北方領土の90%以上占める国後、択捉島を含めた千島列島を日本が放棄したのです。
なぜ、こんなバカげた事をしてしまったのか…。一説によりますと、サンフランシスコ講和条約をソ連とも締結したかった日本はソ連に気を使って千島列島放棄の中に国後、択捉を含めたと言われています。
ただソ連はサンフランシスコ講和条約を締結しませんでした^^;
当時、同じ共産圏の中華人民共和国が不参加だったため、会議の無効を訴えてソ連のスターリンはサンフランシスコ講和条約に署名しなかったのです。
因みにこの時代の共産圏の結託は強く、ソ連以外にもポーランドやチェコスロバキアも同じ理由で署名しませんでした。
どうでしょう。ここまで整理すると、もともと日本のものだった北方領土が戦後の混乱のどさくさでロシアのものになり、サンフランシスコ講和条約で戻りそうになったのにそれを放棄してしまった。
という事です(^^;
北方領土2島返還 | まとめ
いかがでしたでしょうか?北方領土の主権をザッとレポートしてみました。もともとは日本の領土だった北方領土ですが、途中からロシアが実行支配してるのは歴史を見てみると分かりますよね。
北方領土2島返還と言われて、『ふざけんな何が2島だよ(`ヘ´)』ってなるか、『2島でも戻って来て良かった(^o^)』となるかは、どの部分の歴史を見るかの違いなんでしょうね。
江戸時代には間違いなく日本の領土であった北方領土も100年後の1951年サンフランシスコ講和条約では放棄してるのも事実なわけで…。
ソ連は締結してなくても、国際的に日本が放棄した事は紛れもない事実な訳ですよね。
どの部分をスタートにするかで北方領土2島返還の印象は全然違います。
それと大事なのは、この状況で安倍晋三首相は『北方領土2島返還』にカジを切った事を認識することですよね。
これを言うと官房長官は「政府としては、北方四島の帰属問題を解決して平和条約を締結する」って言いますけど、4島の帰属とは日本へ歯舞、色丹の2島、ロシアへ国後、択捉の2島をそれぞれ帰属させても4島の帰属にはなる訳で…。
もちろん4島全部が日本に帰属する事もあれば逆にロシアに全部持ってかれても、4島は帰属する訳です。
つまり4島のうちどの島がどちらに行くかは関係なく行き先が決まった時点で『4島の帰属問題を解決する』訳です。
それと、外交では当たり前ですがロシアもロシアの考えがある訳で。。
この状況で安倍首相が、どう結着させてくれるのか期待したいと思います。
この記事へのコメントはありません。