北方領土って結局、日本人が先に住んでたのでしょうか、それともロシア人が先に住んでたのでしょうか。
北方領土の主権を争ってきた主役は日本とロシアですから、どちらか国の人が先に住んでるはずですよね。
でもですね。
調べていくと北方領土に一番最初に住んでたのは日本人でもロシア人でもありませんでした(^^;
アイヌの人たちでした。
少なくても日本人やロシア人が北方領土に入島したときには、すでにアイヌの人達は生活していた事が分かるのです。
この辺を中心に北方領土の歴史からレポートしていきますネ。
目次
北方領土の歴史上、最も古い島民はアイヌだってどうしてわかる?
北方領土に一番最初に住んでたのは日本人でもロシア人でもなくアイヌの人。
それを証明できるおそらく一番古いも証拠は、『正保御国絵図(しょうほうおくにえず)』の作製にまつわる話しかなと思います。
『しょうほう おくにえず』…言いにくく読みにくいですよね^^;
『う』と『お』の間にスペースを入れると若干言いやすいかもw
正保御国絵図とはざっくりいうと地図の事です。
幕府が諸大名に命じて国単位で作らせた地図(国絵図)です。
要は地方にいる諸大名が自国の領有地を幕府に知らしめるために『俺の領地はコの範囲ダヨ』と地図にして、幕府に提出していたのが正保御国絵図という事です。
こちらが当時の正保御国絵図です。今とはかなり形が違いますが^^;
で、これを作ったのが、1635年北海道(蝦夷地)を領有していた松前藩です。
松前藩の家臣 村上 掃部左衛門(むらかみ かもんざえもん)が樺太、国後、択捉を調査し地図を作りました。
そこに住んでいたアイヌからの聞き取りなどをしながらかなり精度の高い地図を作っていったのです。
それから9年後の1644年、松前藩から江戸幕府へこの地図を献上します。
この時の地図に国後(クナシリ)択捉(エトロフ)得撫(ウルップ)など39の島がしっかり明示されていました。
このことから1644年時点では北方領土は、松前藩(日本)が領有していた事と、その松前藩(日本)が入る前からアイヌが居たことが分かりますよね。
では、ロシアはこれより先に北方領土に居たのでしょうか…。
北方領土の歴史 | ロシアはどうやって北方領土を認識していったの?
一方、ロシアはどんな形で北方領土を認識していくか…と言う話しですが…。
ロシアは千島列島をクリル諸島と言っており、1648年にセミャーニンデジェネフ、翌年1649年にはスタンドゥーニン兄弟がそれぞれ北クリルの島々を探索したとされてます。
しかし、ロシア人の名前って言いにくいし覚えにくい(^^;
この時期ロシアはピョートル一世と言う人がロシアを治めていました。皇帝ですね。一番の権力がある人の事です。
(ピョートル一世の人柄は最後に載せておきますネ。)
1720年ピョートル一世の命令で、イワン・エヴェレィノフと、フヨードル・ルージンが地図作製にとりかかります。
ちなみに、イワンとフヨードルは数学航海学校を卒業した測量技師でした。この2人が数年かけて、かなり精度の高い地図を完成させます。
そしてこの地図の中で千島列島を『オストロワ・ヤポンスキヤ』と表記していました。
その意味は『日本の島々』という意味です。
こんな感じだったんでしょうね^^;
このことからも分かるようにロシアが北方領土を調べだすのは1700年代で、松前藩の地図作製よりだいぶ後なわけです。
しかも当時のロシアは千島列島を日本の島(領有)だったと認識しているんですよね。
北方領土の歴史 | アイヌと日本とロシアの最初の認識を整理
…と言うことで、整理しますと、北方領土の歴史で一番古い住人はアイヌの人たちで、そこへ日本(松前藩)が入り込んで北方領土を統治する事になり、それをロシアは認めていた…と言う事になりますね。
北方領土の歴史 | ロシアの皇帝ピョートル一世について
ピョートル一世(1672年~1725年)は初代ロシアの皇帝で1700~21年バルト海の支配権をめぐるスウェーデンとの戦争に打ち勝ち、ロシア帝国を作り、他国からの侵略が続いた動乱期を終わらせ新たな王朝を作った人です。
そんな人なんでロシア初の海軍を作ったり、戦争にもたけてるし外交も強硬策をとっていましたが、ロシア国内に日本学校を作らせたりもしてるんですよ~。
当時、ロシアはカムチャッカを占領しておりアザラシの毛皮を交易するための拠点としていましたが、ロシアにとっては極東の地、物資や食料など何かと不安定だったわけです。
そこでカムチャッカに近い日本と交易を結びたいということで日本語学校を作って日本と交易しようと考えた訳です。
ただ当時の日本は鎖国真っ只中でしたから、うまくいきませんでいたけどね^^;
因みにこの時の日本語学校の講師は伝兵衛(でんべえ)という大阪人です。
この伝兵衛が大阪から江戸に船で移動中嵐に巻き込まれカムチャッカ半島に漂流するんです。カムチャッカはロシアなのでロシアに漂流しちゃったって訳ですね^^;
で、その漂流してきた日本人に皇帝であるピョートル一世が直々に会い、日本語教師を命じたのです。
生活費はロシアの国費どんな賄ったといわれているので、戦争に長けていて粗暴なイメージがあるピョートル一世ですが、外国人にも訳へだてなく付き合うフランクな性格だったんですよね~。
北方領土の歴史 | アイヌの人たちの歴史
北方領土の歴史でアイヌの虐げられた歴史についてもレポートしておきます。
アイヌの人たちは虐げられた歴史があります。
例えばアイヌとロシアの関係で言えば1768年コサックの軍人が得撫島や択捉島にやってきてラッコの毛皮を取るために現地にいたアイヌ人を酷使するんです。
コサックとは当時のロシアの農奴制から逃亡した軍事集団です。
ただ虐げられて黙ってるアイヌではありません。
このコサック軍人にアイヌ人が蜂起し、ロシア人20数人を殺しました。
また1789年にはアイヌの三大放棄の一つクナシリ・メナシの戦いも起きてます。
クナシリ・メナシの戦いは蝦夷地を支配していた松前藩から交易の権利を得た商人が現地のアイヌ強制的に働かせた事が原因でした。
安い賃金(品物)でアイヌが冬を越すための食料を確保する暇も与えず働かせ、餓死するアイヌもいました。
さらにアイヌ女性に対する性暴力なども横行していました。この状況にたまりかねたアイヌが蜂起(ほうき)を起こしたのです
放棄とは武力デモのようなものです。
ただ松前潘に抑え込まれてしまい、放棄前より虐げられることになってしまいます。
北方領土問題は日本とロシアの主権争いですが、もともと住んでいたのはアイヌの人たちです。
こんな感じで、常に虐げられて犠牲になってるのがアイヌの人たちだと歴史を見ると分かりますよね。
なんだかな~。
過去にも平和に暮らしてるアイヌに後から来た人間が迫害する事件が何度も起きています。
北方領土の歴史 | まとめ
いかがでしたか。北方領土の歴史で一番最初に住んでたのは誰かをレポートしてみました。
ご覧のように北方領土には日本やロシアがゴチャゴチャいう前にアイヌの人たちが住んでいてしっかり交易など行い生活していたわけです。
『北方領土は我が国固有の領土』と日本は言うけど、正確にはアイヌの人たちの領土ですよね^^;
ロシアも早く実効支配をやめて、アイヌに返せば良いのに…。って思っちゃいます。
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